かつて、越前国(現在の福井県北部)から若狭国に入るには、幾重もの山や峠を越える必要があった。越前・若狭・丹後を結ぶ道は丹後街道と呼ばれ、古来、人や物資の往来を支える主要ルートのひとつだった。
そんな丹後街道を見下ろし、若狭国の東の国境を守っていたのが、佐柿地区に築かれた「国吉城」である。
1563年から約10年にわたり、越前国から侵攻してきた朝倉氏の軍勢を迎え撃ち、一度も落城しなかったことから「難攻不落の城」と称されるようになった。
この戦のさなか、織田信長が越前朝倉氏へ進攻する道中で国吉城を訪れ、長年戦い続けた粟屋勝久や地侍たちを賞賛したと伝えられる。その場には後に天下統一を果たす三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)が揃っていたという。
だが、標高わずか200m足らずのこの城が、なぜ「難攻不落の城」とまで言われるようになったのだろうか。
国吉城の歴史へ誘う
若狭国吉城歴史資料館
JR美浜駅から車で約5分、到着したのは若狭国吉城歴史資料館。国吉城址と、その城下町として造られた佐柿の歴史的な町並みを模型や写真、解説パネルで紹介している。
資料館の隣には国吉城址への登城口があり、約30分ほどで登ることができる。今回は国吉城の発掘調査を手がけた若狭国吉城歴史資料館の大野康弘館長とともに本丸まで登ってみよう。
発掘調査が明らかにした
城の痕跡
国吉城の周辺は粟屋氏に替わり城主となった豊臣秀吉の家臣、木村常陸介によって城下町として整備された。しかし国吉城自体は廃城となった後、長きにわたり雑木林が生い茂り、土砂に埋もれていた状態だったという。
「近年の発掘調査で、国吉城は単なる戦のための山城ではなく、石垣や天守を備えた大名の居城へと改修されていたことが判明しました。その成果が評価され、『続日本100名城』にも選定されています」と大野さん
遊歩道を進んでいくと、やがて平坦な区画が現れた。ここが、城主や家臣たちが暮らしていた「城主居館跡」だ。
発掘前は、その痕跡すら見つかっていなかった。しかし、2001~2002年の調査で石垣や石組溝、礎石建物跡が発見され、国吉城が江戸時代以降も利用されていた可能性が浮かび上がった。
あたりに見える石垣は、すべて近くで採れた自然石を使っているそうだ。しかし、場所によってところどころ形の整った石垣も見える。
「江戸時代以降の石垣の隅は、直方体に加工された石が使われています。石垣を見比べるだけでも、時代の変遷が感じられますよ」と大野さん。
随所に溢れた敵を
寄せつけない工夫
居館跡から九十九折りの山道を登っていく。
現在は遊歩道として整備されているが、急勾配の階段が続き、息が上がる。城を攻めようとした敵兵も、まずこのような険しい山道や切岸(斜面)で体力を奪われたことだろう。
実際にこの山道の途中からすでに防御の仕掛けは始まっている。中腹には「伝二ノ丸」と呼ばれる曲輪(くるわ)があり、石垣の代わりに高さ2mほどの土塁が築かれている。ここから山を登ってくる敵に向けて攻撃が仕掛けられたのだ。
「普通に登っていたら、すぐに弓矢の餌食ですよ」と笑う大野さん。
さらに、「伝二ノ丸」に辿り着いたとしても、「喰違虎口」と呼ばれる交差する土塁が待ち構えており、攻め込むのは至難の業だ。これこそが「難攻不落」といわれる所以である。
頂上の本丸跡近くまで登ると、「連郭曲輪群」に到着した。名前の通り、「曲輪が連なっている」場所で、6段にわたり曲輪が段々状になっている。
それぞれの高低差は約4〜10メートルほどあり、ほぼ垂直に切り立っているため、麓から敵が攻め上がってくるのも一苦労。さらに当時は上から石や大木、石仏や墓石などを投げつけていたそう。
大変な上り下りと滑りやすい斜面の連続で、いかに国吉城が攻めにくく守りやすかったかがわかる。
本丸から望む絶景
標高、197.3メートルの城山の頂上である本丸跡に到着。
周囲には石垣が出土し、まさにここが「最後の砦」として重厚な造りをしていた痕跡が残っているそうだ。
「これまで国吉城のような戦国時代の山城には『天守』はなかったとされるのが一般的でしたが、長年の発掘調査によって、後世になり天守に相当するような建造物が建てられた可能性が出てきました」と大野さん。
幻の天守も、じきに復元できるかもしれない。
それにしても本丸跡からの眺めは素晴らしい。
北は日本海や敦賀半島、東は籠城戦の舞台となった山東地区、西には三方五湖や美浜町の市街地を見渡すことができる。
かつてここで織田信長もこの景色を、ほめたたえたという。
戦乱の世に生きた武将たちの息遣いを感じながら、国吉城の歴史に思いを馳せた。