多くの船主で栄えた集落
江戸から明治にかけて、日本海を通りながら現在の北海道から大阪を行き来していた商船「北前船」。積み荷を運ぶ船ではなく、運んだ積み荷を商品として売り買いすることで「動く総合商社」とも言われていた。
危険と隣り合わせではあるものの、うまくいけば一回の航海で莫大な利益を得ることができるため、一攫千金を夢見た船主たちが海に繰り出したという。
日本海側である美浜町には丹生(にゅう)、坂尻、久々子(くぐし)、早瀬から多くの船が出航していたが、なかでも早瀬には多くの船主が住み、さまざまな物品や文化がもたらされたことで経済的に発展した寄港地として知られている。
2024年6月には、文化庁が地域の歴史的魅力や特色を認定する“日本遺産”の北前船ストーリー「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落」へ認定自治体として美浜町が追加され、北前船の歴史が再び注目を集めている。
我々も、その歴史を辿ってみよう。
加工技術に長けていた早瀬
まちなみをめぐる前に、北前船のことを知るためにやってきたのは美浜町歴史文化館。美浜町の文化遺産、歴史文化にまつわる資料を調査研究し、展示公開している。
「早瀬は古くから漁村として栄え、室町や戦国時代など越前(現在の福井)の武将・朝倉氏が栄えた時代には城もあったといわれていました。単なる港町ではなく、水運を利用した重要な拠点だったことがわかります」
と、館長の大野康弘さん。
「北前船は食品はもちろん、生活用品や建材などさまざまな商品を運び、各地に寄港するたびに商売をしていたので『動く総合商社』ともいわれていました。早瀬からもたくさんの商品が全国に広がっていったんです」と学芸員の小牧拓矢さんも語る。
美浜町内の寄港地からは“ころび”と呼ばれるアブラギリの実を絞った油や、肥料として価値の高かった干鰯(ほしか)、そして小麦の産地であったことから素麺などの食べ物や新庄地区で作られた炭が各地に運ばれた。
なかでも、早瀬は脱穀用農具である「千歯扱き(せんばこき)」の生産地としても発展。早瀬の千歯扱きは「若州早瀬せんば」と呼ばれ、全国に販路を拡大した。
それにしても不思議なのは、田んぼがほぼない早瀬で、なぜ米の脱穀機を作るようになったのだろうか。
「北前船で各地からさまざまな品物が早瀬に入ってきました。米もそのひとつです。さらに出雲地方から入ってきた鉄を加工して農具にすることで、新たな商売のチャンスを広げていったのだと思われます」と小牧さんは言う。
鉄を千歯扱きに、米を酒にといったように、各地からもたらされたものを加工し、再び北前船で運んで商売するサイクルが確立していたことがわかる。
集落に残る北前船の面影
北前船は船主だけでなく数多くの船員を抱えていたため、寄港地は多くの人でにぎわった。早瀬にも宿や料亭、商店が立ち並ぶなど、暮らしに必要な産業やお店はすべて揃っていたそうだ。
早瀬の集落を歩いていると、壁に「なまこ壁」が施されている蔵も見られるなど、経済的にも発展していた歴史を垣間見ることができる。
北前船の歴史のなかで、早瀬のシンボルである日吉神社もはずせない。氏子である北前船主が海上安全などを願って参拝していた歴史ある神社で、境内の常夜燈は、夜の海上に浮かぶ北前船が早瀬の位置を見失わないための目印となっていたといわれている。
この神社の神事でもある「子供歌舞伎」も早瀬の豊かさを象徴するものだ。
もともと江戸時代に蔓延した疫病を鎮めるために始まったものだが、北前船主たちも資金を工面。豪華絢爛な曳山や幕は、まさに当時の繁栄と文化の結晶ともいえるものである。
海の安全を祈願する
「水無月祭(みなづきさい)」
7月の終わり、この日は「水無月祭」が行われた。子供歌舞伎と同じく日吉神社の神事で、御神体を移した神輿が船に乗り海を渡る、海の安全を祈願したものだ。
この神輿の建立にも船主たちが関わっていることから、日本遺産の構成文化財の一つになっている。
朝から子どもたちが神輿を曳きながら練り歩き、夜には夜店が出て納涼踊り大会も行われる水無月祭。境内に響く子どもたちの賑やかな声や世代を超えて交流している姿は、集落の未来そのものだ。
北前船の歴史が息づく早瀬。
時代とともに世代が代わり、まちの姿がうつり変わっても、危険と隣り合わせで航海を続けた船主たちの営みがこの集落であったことを記憶にとどめておきたい。