150年以上、
脈々と受け継がれる伝統芸能
毎年5月3日、早瀬地区の日吉神社では山王祭礼が行われる。あでやかな衣装をまとった地区の小学生が、曳山(ひきやま)の上で「子供歌舞伎」を演じる。
そのはじまりは江戸時代後期のこと。1810年代、早瀬ではコレラが大流行し、多くの死者が出ていた。
村人たちが疫病を恐れる日々を過ごしているなか、集落の古刹・瑞林寺の住職の発案で山車を建造することに。1857年に早瀬の氏神が祀られる日吉神社に子供歌舞伎を奉納したところ、コレラの流行が収まったのだ。
それから150年以上にわたり脈々と受け継がれる子供歌舞伎は、町指定無形民俗文化財となっている。その舞台裏に迫った。
夜な夜な行われる稽古
4月中旬、夕方になると早瀬観光センターに地域の大人や体操服姿の小学生4人が続々と集まってきた。
あどけない表情でくつろぐ子どもたちは今年の子供歌舞伎を舞う小学生たち。
役者となるのは小学2年〜5年生の男子と決まっており、当日を迎えるまで、稽古は3月下旬から週3日程度行われる。
子供歌舞伎の変遷
子供歌舞伎で演じるのは「寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)」。
翁(おきな)が天下泰平を祈念して厳かな舞を見せ、続いて「三番叟(さんばそう)」と呼ばれる二人の役者が五穀豊穣を祈り、軽快な鼓の調べに乗せて舞う躍動感あふれる演目だ。
「昔はたくさんの演目があったんですよ」と教えてくれたのは子供歌舞伎保存会の橋本愼一さん。
江戸期から大正期には「鎌倉三代記」「太閤記」「三勝半七」「梅忠」など、120余の台本から時代物・世話物・艶物を選んで上演していた。昭和に入り、芝居は2幕になり、昭和42年(1967年)ごろから、「寿式三番叟」のみが上演されるようになった。
「子どもの数が多くて、役が回ってこない子どももいたんです。歌舞伎の奉納は朝から行われ、町内を13、4箇所回っていくので、終わるのは日づけが変わる頃。曳山の上で寝てしまう子どももいましたね」
子どもたちの成長を見つめる
指導者の思い
子供歌舞伎の指導や囃子はすべて保存会の会員によって行われている。
子どもたちに踊りを教えるのは、子供歌舞伎保存会の栢野裕志(かやの・ゆうじ)さんと寺川効完(てらかわ・かずさだ)さん。
彼らもその昔、子供歌舞伎の舞台に立った経験がある。
「私たちの時代は県外の旅役者が毎年指導にあたっていました。厳しい人で、挨拶や礼儀など、人として大事なことも教えてもらいました」と語る栢野さん。
子どもたちの指導をするようになって15年以上経つ二人。子供歌舞伎を通して子どもたちの成長を見届けられるのが大きなやりがいだという。
「近所を歩いていると、『歌舞伎のおんちゃん』って声をかけてくれるんです。親でも学校の先生でもないつながりが生まれるのが嬉しいですよね」と寺川さんも微笑む。
本番まであと少し。笑顔も出るなどまだまだリラックスした様子だ。
「毎年、ちゃんとできるかなと不安になるんですが、当日になると子どもたちの顔がキリッと変わるんです。本番を見に来ると驚くと思います」と寺川さん。
子どもたちにも本番を見に行くことを伝え、再会を約束した。
子どもたちが役者の顔へ。
子供歌舞伎の1日
5月3日、子供歌舞伎当日。
早朝6時前から子どもたちの着付けが始まった。
顔から首元にかけて白粉を塗り、目張りと唇に紅を差していくと、先ほどまでゲームに興じていた子どもたちが一気に役者の顔へと変化していく。
衣装に着替えた役者たちは日吉神社を参拝。
地域の小中学生や青年たちによる太鼓が奉納され、うっそうと茂る静かな境内に途切れることなく太鼓の音が響き渡る。
いよいよ子供歌舞伎の舞台である曳山がやってきた。
「チョウサジャ」「ヤーン、ヨコジャ」
300mほど先にある瑞林寺横の山倉から出発した曳山は、進路を伝える独特の掛け声とともに、神社まで移動していく。
無事、日吉神社に山車が到着。大勢の観客が見守るなか、いよいよ子供歌舞伎が始まった。
ゆったりとした三味線とお囃子に合わせて金色の扇や鈴をかざし、舞や足拍子など切れのある動きを披露していく。
堂々とした舞と迫真の演技。練習での姿を見ているからか、彼らの凛々しい姿に思わず目頭が熱くなった。
その後、曳山はさだまさし原作の映画「サクラサク」のロケ地でもある瑞林寺に移動し、再び寿式三番叟を奉納。役目を果たし、舞台から降りた小学生たちは「暑かった〜」といつものあどけない表情へ戻っていった。
舞台を演じる子どもたちがいる。彼らに伝え、見守る大人たちがいる。
150年以上続いてきた子供歌舞伎は時代とともにその形を変えてきたが、
地域の子どもから大人まで、世代を超えてひとつになる景色はこれからも変わることはないだろう。