三方五湖の一つ、久々子湖畔沿いにある早瀬の集落で、300年以上にわたり酒造りを行う三宅彦右衛門酒造。繊細さのある味わいで飲み飽きしない爽やかな辛口酒の主力銘柄「早瀬浦」は全国各地にファンが多い。
幼い頃から大勢の杜氏たちとともに寝食をともにしてきた12代目の三宅範彦さん。当時は冬になると遠方から杜氏が職人を引き連れて蔵に訪れ、冬の期間酒造りに勤しんだ。当時の酒蔵は家主や家族であっても蔵に入ることができず、家族は1日中杜氏や職人たちの食事や身の回りの世話を行っていたそうだ。
「小学生の頃は、冬になるたび家が賑やかになっていました。家族は大変だったと思いますが、私は職人さんに遊んでもらった楽しい記憶しかなかったですね。一方、8つ上の兄はちょうど思春期だったので、知らない人が出たり入ったりする環境は、多感な時期にはたまったものではなかったのでしょう。『酒蔵はお前に任せた』と言われました」
小学校の卒業文集には『酒蔵で日本一になる』と書いていた三宅さんは、高校卒業後に東京農業大学へ進学。同級生には酒蔵の後継者も多く、飲みに行く時は“自分ちの酒”が置いてある店を選ぶのが恒例だったという。
「当時は大吟醸ブーム。同期はみんな『うちの酒を飲みに行こう』って連れていくんですが、うちでは大吟醸を造っていないし、東京に流通もしていなかったんです。友人が誇らしげに自分ちの酒を紹介する姿を見るたび悔しい思いがありました」
卒業後、美浜に戻った三宅さんはこれまで造っていた普通酒を一切やめ、杜氏たちとともに吟醸酒などの特定名称酒造りに取り組み始める。かつては「澤の井」という名前だった銘柄も「早瀬浦」に一新。この頃、杜氏と過ごした時間がとても大切な時間だったと三宅さんは振り返る。
「大吟醸を造る設備も道具もない。もろみを冷やす機械がない時はトラックで山まで雪を取りに行ったこともありました。まだ大学を出たばかりで経験のない若造の言うことを、その杜氏さんは何でも向きあってくれたんです」
「杜氏さんは『俺は酒を造り、人をつくりに来た』と常に言っていました。これまで地方の小さな酒蔵を回りながら出稼ぎに行っていましたが、1軒残らず廃業してしまったそうです。地方の酒蔵が生き残っていくためには酒蔵の将来を真剣に考える人を育てなければならない。そんな覚悟を感じました」
酒造りに対してひたむきな三宅さんの姿は次第に多くの人に伝わり、応援してくれる人が増えていった。美浜に戻って最初の年に東京で開催された福井県酒造組合主催のイベントに出した「早瀬浦」は注目を集め、翌日から電話が鳴り止まなかったという。そこから20数年、一段ずつ階段を登っていくように三宅さんらしい挑戦を続け、今では全国各地から早瀬浦を求める日本酒ファンが増えた。
「酒はいくらでも目をかけていいが、手のかけすぎは駄目だといわれています。お客様に飲んでいただくコップ一杯の酒にどれだけのことができるか。まだまだ試行錯誤です。これまで杜氏に育ててもらったことを後の世代に伝えていくためにも、一生懸命酒造りをしている背中を見せることが、私なりにできることなのかなと思います」
酒は水と米、目に見えない微生物によって発酵し、その味わいが生まれていく。
「ただ寝ているだけでも酒になるし、起きて造っても酒になる。お前はどういう酒を造りたいんや」
若き日に杜氏から言われたことを、三宅さんは今も自分に問いかけ続けている。